Birthed in tokyo japan by an ambitious and unique group of individuals.

b.g.u. is a queer and intersectional feminist zine/collectivE.

B.G.U.は東京生まれで、

クィア|インターセクショナル|

フェミニストのジンであり、

個性的な人たちの集まり。

たそがれ時

たそがれ時

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2017年4月某日、僕は会社を辞めた。大雨の日だった。自動ドアを抜けた瞬間から、紺色の傘では防げないほどの後悔や不安に打たれることを覚悟していたが、予想に反して何も感じなかった。

東京近郊の比較的裕福な家庭に生まれ、過保護な両親が苦労しないように敷いてくれたレールに沿って、僕は素直に生きてきた。勉強の環境やイジメの心配をした両親により、小学校から私立に通い、3度の受験を経て、それなりの学校を卒業した。そして大きな挫折もせず、それなりの職を得ることができた。就活も、自分より両親の方に気合が入っていて、オーダースーツからブランド鞄まで一式買い与えてくれて、どこの会社が良い・悪いと選別リストまで作ってくれた。

この先、1つの会社で頑張り抜くという家訓の元、それなりに出世をしつつ、結婚して子どもを2人くらいつくり、30歳くらいで小さい一軒家のローンを組んで、定年まで家族のために働くのだろうな。そんなことを入社式でぼんやり考えていた。

でも、心の奥底で、このレールでは幸せになれないことを知っていた。僕は、世間体で決めた会社に一生を捧げるモチベーションも無ければ、都心に建つマンションの1LDKの部屋に憧れているし、子づくりはできないというか、女の人よりも男の人が好きだ。こんな古くさノンケ鉄道ではいつか脱線する、ないし地獄往きは明白だ。でも、気づかないふりをしていた。今更自分でレールを作る自信はないし、方法もわからない。いつも気づいたら他の誰かが決めてくれていて、それにしょうがないなあと従う。大学まで進学したのだって、Perfumeの誰かに似ていたサークルの先輩と付き合ったのだって、履歴書の特技欄に書いたピアノでさえ。ぼんやりとした自分という不安に向き合うくらいなら、他人が作ったレールに我慢して沿って、ちょっと不満が残るくらいの方が楽だった。

僕がいた会社は、とても保守的で昔気質の会社だった。今頃、なんだか女性社員が少ないなあと言い出す具合で、ゲイなんてもはや都市伝説であった。女じゃ話にならん、こんな言葉が平気で飛び交う男社会の社内では、自分の素性は押し殺すのが一番だった。そんな化石みたいな会社には、沢山の暗黙のルールがあった。例にも漏れず、上司の発言は絶対だった。業務後の飲みを断ろうものなら、査定表に協調性に欠けていると刻まれる。たとえ人格否定の説教大会になることが分かっていても、こちらに拒否する権利はない。一度、胃腸炎になって断ったことがあったが、そのときは、「俺を誰だと思ってるんだ!本店官僚だぞ!」とドロップキックを食らった。まるで漫画のような状況に、笑ってやり過ごしながらも、血が出るまで自分の手に爪を立てた。それでも、週末のビールと、知らぬ間に口癖となっていた、「いつか転職したい」の来ない「いつか」に縋りながら、なんとか日々をこなしていった。

だがある日、僅かだが自分の変調に気づいた。職場の人といつもどおり仕事の話をしているのに、なぜか呂律が回らない。うまく喋れない。その日を境に体の不調が増え、段々と体が思いどおりに動かなくなっていった。

僕は、これまで周りからメンタルの強い人間だと思われてきた。また、自分もそうあるべきと、そのような振る舞いを心がけてきた。自分の気持ちに蓋をして周りに合わせ、嫌なことはひたすら耐える。文句を言いながらも、そんな自分流の強さに美徳すら感じていた。この世界は、力の強い人間が何事も決める力を持っていて、それに抗えばコテンパンにされる。親に逆らえば食事は出てこなかったし、会社に意見したあの人は遠くへ左遷された。そんな結果が見えている無駄なことをするなら、手に爪を立ててやり過ごしたほうが、平和だし得だ。大人な自分が譲ってやるという、訳の分からない傲慢さもあったのかもしれない。

しかし、鈍化した心に体は追いつかず、遂には壊れてしまった。インターネットで以前、自分と似た症状の記事を見つけていた。鬱の記事だった。曖昧な情報だと放っていたが、どうしようもなくなって、大きなマスクをして病院へ行った。まさか、この僕が心療内科に行って、しかも鬱の診断を受けるなんて夢にも思わなかった。医師には辞めるか、せめて休職しないとまずいと言われた。そう言われて、せっかく世間体の良い会社に入って、同期で1番のポジションを築いて、出世が約束された部署にも異動できて、と心臓がバクバクした。医師の話をよそに、薬を飲めばこれまでどおり働けますか、なんて的外れなことを聞いたのを覚えている。

医師の強い薦めにより、ついに家族や会社に状況を打ち明けた。自分の気持ち、特に弱い部分を曝すなんて恥ずかしいし、なによりも道を踏み外すようで怖かった。でも実際はなんてことはなく事は進んだし、周りはいつもどおりだった。

家族や友人はひたすら話を聞いてくれたし、気晴らしの旅行に誘ってくれたりもしてくれた。だけど、失望も同情もせず、変わらず接してくれたことが一番嬉しかった。一方会社では、上司の接し方が変わったりしてストレスは減ったが、明らかに腫れ物に触るようであった。あーあ、これは出世街道からは外れたなと感じたが、なぜか別にいいやと思えた。

少し肩の荷が下りてから、自分に目を向ける練習を始めた。馬鹿みたいに聞こえるかもしれないが、無意識に鈍感化の訓練をしていた僕は、自分は何が好きで、今はどう感じて、といった当たり前のことさえわからなかった。どうしたものかと考えていたら、ふと部屋の隅に詰まれた本が目に入った。面白そうと買っては、今は忙しいからとほったらかしにしていた。週末の飲み会の誘いを断り、自室で何も話さぬ紙と一日中過ごしてみた。さすがに途中で飽きてしまい、チラチラとスマホが気になったが、布団の中に押し込んだ。平日に有休を取って、朝から一人で江ノ島に行ったこともあった。途中見かけた美味しそうなパンとコーヒーを持って、一日海岸でぼんやりした。

僕の周りには、親、会社、飲み会、SNSといった、手軽な「安心」という、応急的な痛み止めで溢れている。それらに頼らず、何をしたらいいか分からない宙ぶらりんな状態になることはとても怖い。だけどそんな孤独に思い切って飛び込んでみると、ふと心と体が緩むときが来て自分との対話が始まる。自分は何が嫌で、今はこうしたくて、とぼんやり道筋が浮かび上がってくる。ぼーっと江ノ島でコッペパンをかじっていたら、「あ、会社の人は大嫌いだし、そもそも仕事も嫌いだ。」と突然思い浮かんだ。今後この会社でどう仕事していこうかな、なんてずっと考えていたのに、急に現れた自分の本心に驚いた。

そして僕は、初めて自分で人生を選択した。もったいない、逃げだ、色々な意見があるだろう。でも、誰のためかわからない地位はいらないし、何からの逃げなのかも僕にはよく分からない。ただ、また道を踏み外してもやっぱり僕は生きていて、相変わらずな毎日が待っていた。

今

女子力-Girl Power-

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