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リベラとインタビュー前編: 黒人であること、その交差性、そして私の自己成長

リベラとインタビュー前編: 黒人であること、その交差性、そして私の自己成長

今回のインタビューでは2年間(2021年、2022年)にわたって、リベラと様々な話をしました! 黒人でない人が黒人コミュニティのために何ができるのか、アイデンティティーの交差性について、人種差別が日常の中でいかに蔓延しているかなどを語ってくれています。

インタビュー:: 森本優芽(B.G.U.)

翻訳:杉山大悟

写真撮影 カレラ・マラ・ラフィナン(Karella Mara Raffinan

アシスタント:マヨ(B.G.U.)

インタビューの質問や写真のコンセプトはリベラと対話をしながら考えたコラボレーションです。

英語バージョンは下のボタンから!

2021

Y:ではまず初めに。お名前と代名詞は?そして、最近よく考えてることとかある?

L:普段はリベラ・アマディって名乗ってるけど、本名はリベラ・アマディワカマ・持橋。アマディワカマが父方の苗字で、持橋が母方の旧姓。代名詞はshe/her(彼女)。

最近よく考えてることは、#stopasianhate運動と白人至上主義、人種差別と、、、それぞれがもう、なんかやるせないな、っていうこと。

去年、BLM運動の最中、たくさんのアジア人の友達が「黒人ってアジア人に対して差別的だし、なんで擁護しなきゃいけないの?」とか、そういうことを言っていて。それが今となってはみんなインスタで「アジア人差別をやめろ」って広めていて。問題の根っこは白人至上主義にあると思うの。

私はいわゆる「ブラック」と「アジア人」の真ん中にいるわけで、そんなやり取りを見ていると白人至上主義が有色人種の人たちを互いに争わせているように感じる。

アジア人コミュニティーの間でもアンチブラック的な風潮がずっと見られてきた。歴史的に東アジアの人はブラックを踏み台にしてお高く見られてきた。「白人至上主義こそが真たる悪」っていう考えはわかるけど、間違いなく東アジア人は特に白人至上主義に加担して、白人性との距離の近さによって利益を得てきた。東アジア人にもその責任があると思う。なかなか見ない議題だけど、交わされないといけない話だと思う。

Y: 去年から連絡を取るようになったけど、もともとは「Speak Up Sophia」のリベラの記事を読んで、そこから連絡させてもらったんだよね。その記事ではリベラの黒人性、警察との関係や、美の基準をはじめとした様々なトピックに対しての考えや経験について書かれていたね。それと、人種差別とミソジニー(女性蔑視)の交差点に立った経験についても。

L:そう、Speak Up Sophiaの記事では日本社会の中でのジェンダー論がどう私に影響したかを書いたと思う。「女性性」が男性によって、男性目線から作り上げられたものであることについて。女性は「ピュア」で、「清潔」で、「繊細」でなきゃいけないっていう考えがあるんだよね。要するに、男性が「守りたい」って思うような人。それで、幼い時からそんないわゆる「理想的な女性」には自分は絶対なれないと感じていて、特にメディアが取り上げるそんな女性が私のような見た目じゃなかった。白い肌、まっすぐな黒い髪、細い体と、大体私の正反対だった。

それと、「黒人身体能力神話」について書かれた論文を読んで、いろいろ気づかされたことがあったの。なんのことだったかというと、黒人は生まれながらにして体も大きく、強く、スポーツに長けていて、先天的な運動能力が優れていると信じられているという論文で。それによると、アメリカでその神話を信じているのは半分未満らしいのね。日本ではほとんどの人がそれを信じて、疑わないらしい。社会心理学者の我妻洋によると、四、五十年前は日本人は黒人がアスリートとして遺伝的に長けているって信じていたらしいのね。

日本人の黒人観」の著者であるJohn G. Russelも同じく、黒人をアスリートとして描写するコミックや漫画が多すぎる、って言っていて。それは「すべてのブラックはアスリートだ」っていう偏見に加担してしまう可能性があるって。

で、その論文を読んでて思ったんだよね、「それ、すごくよく言われる」って。私のことを一目見て「スポーツ得意そうだよね」って言う人がいるんだよね。確かに陸上競技をやってたからあながち間違いではないんだけど。でも、その時だって、練習やトレーニングをしてる時に人種と民族性だけ見て「陸上が得意なんだろう」って思われていた。面と向かって言うんだよ、「黒人だから」って。

未だに日本人が持ってるこの考えってミソジニー(女性蔑視)とも関連すると思う。

さっき言ったように、日本での理想的な女性って、控え目で、大人しく、ピュアな人。私はよく強く、アクティブで、スポーツが得意、って見られる。守る必要がないから、男性よりも強いから、って言って「理想の女性じゃない」って一蹴されるんだよね。「怖い」なんて思われることも多くて。

Y: 宮本エリアナさんがミス・ワールドを優勝した時のことを思い出した。たくさんの人が「彼女は日本人じゃない」って言って疎外したんだよね、「私たちとは違う」って言って。もちろん、ミス・コンテストはその他にも色々問題点はあるけど、今回はそれは置いておいて。でも、白人の参加者もたくさんいて、その人たちの人種や国籍は問われない、っていう話は挙げるべきだと思う。黒人性、ってなった瞬間に論議になる。白人のミックスだったらあんな民族主義的な、差別的な反応はなかったんじゃないかと思う。

その一方で、スポーツの分野で活躍して成功している大坂なおみがいる。彼女の場合は称えられ、日本人として受け入れられているように見える、分野がスポーツだから。さっき話した、黒人が先天的にスポーツにたけているっていう迷信に関連付けて言うと、大坂さんは日本人が既存のステレオタイプに当てはめて理解できる人なんだね。

L: うん、本当に悔しい。大坂なおみさんはエリアナさんと比べて日本人に受け入れられやすい。大坂さんのイメージは日本人が持つ偏見に沿ったものであり、エリアナのイメージはそれに沿わない。そして彼女の黒人性によって、日本人性が疑われる。

Y: 日本で育って、人種差別、ミソジニー(女性蔑視)、エスノセントリズム(自民族中心主義)などの、互いに交差する差別を内面化してきたと思う?

L: 日本社会で言う理想的な女性になれる気がしなかったから、白色の服を着ないようにしたり、「女性的」であることを避けたりする時期はあった。すごく気味悪く、自信もなかった。私の中で、白っていう色と「女性的」であることが私にはたどりつけない「ピュアさ」と関連づいているように思えた。私の肌の色、私の見た目によって、私の民族性、人種によって、そういうものを身に着けてはいけないように思えた。日本社会がそういう自己表現にアクセスできないようにしていた。今思うと、本当にやるせなかった。

Y: どんな美的基準を押し付けられてきた?それらはどうリベラの人種、ジェンダー、民族性と関係があると思う?

L: よく髪について色々言われる。すごく気になるみたい。よく犬の毛と比べられるんだよね。侮辱的だけど、褒めてるつもりらしい。

グラマーな体、っていう人もいる。大きい胸と大きいヒップで。私の体型をブラックであることに結びつけてくる。大体が男性からのコメントね。「エキゾチック(外国っぽい)」とか言って、性癖でしか見てないのね。そんなこと言われてどうしろって言うんだろうね?彼らが勝手に思うブラックの女性らしさを性と物珍しさを通してみてるだけなのに。あとは「ブラックにしてはきれい」とかも言われる。まるでブラックは美しくないかのように。

どこかで、西洋の美的風潮は結構しょっちゅう変わるものだって読んだ。それは肌の色だけじゃなくて体型についてもそう。コルセットからマリリン・モンローとか、ヘロイン・シック(かなり痩せた体型)から大きいお尻、といった具合に。今はみんな分厚い唇、大きいヒップ、細いウェストがほしい。ブラック文化を盗用していることも多い。日本では、私の唇は分厚く見られる。私は自分の唇が好きだったことはない。太いヒップも好きじゃない。でもみんなはこのルックスがほしい。ブラックとしての経験をせずに、ルックスだけを求める。

日本で、バイレイシャルやミックスの子が増えてきている。そんな中で「ミックスなように見える」願望を持つ人も増えている。人に見た目を褒められることがあるけど、褒められるのは長いまつげとか長い脚とか、白人とのハーフの子が持っていると思われている特徴だけなんだよね。「ハーフがよかった」って言うのね。

でも私の頭の中では「ブラックのハーフになりたいんじゃない。ブラックになりたいんじゃない。白人性を追い求めてるんだ」って思う。

ブラックとしての経験をせずに、ルックスだけを求める。

Y: 美白クリームの多さもだよね。白さを理想とする考えの普遍化の影響はどう思う?

L: 美白クリームはすごく不快に思う。

この前、薬局にマスカラを買いに行ったんだけど。ただそれだけなのに、白さを売ろうとしてる商品を見ないといけないのね。「美白」って。まるで私の肌の色が悪いかのように指をさしているかのようで。悲しいよね。多様性のために黒人のモデルを雇ったりするかもしれないけど、実際に売ろうとしている商品の中にはその心は反映されないの?

美容業界は概して人種差別的。売られている商品の多くが私に対してのマイクロアグレッションとも言える。私に合うファンデーションが見つかる確率って30%未満なんじゃないかって思う。大体置いてないからネットで注文しないといけない。

ずっと気になっているのがそういう商品のカテゴリーの仕方。私の肌の色より全然明るいけど、比較的暗いものは「健康的な小麦肌」。じゃあ私の肌は「不健康な小麦肌」なの?西洋でも暗い肌の色を食べ物と比べたがる。

変に性的に聞こえるんだよね。私は「コーヒー豆」でも「ホットチョコレート」でも「ハニー」でもない。フェティシズム(性的なフェチの対象にすること)、消費、性に関係があって。有色人種はよく食べ物に例えられることが多い。Fenty Beautyが出てきたときは数字でしかそこを表現しなくて、やっと気味悪くならずに美容用品を買うことができる、って思った。

Y: そんな美的基準にどう対抗してる?

L: 自分が美しくないって信じて、その気持ちを内在化しながら育つのはすごくきつかった。どういう社会や環境で育ったかって、ボディイメージがどう形成されるかに大きな影響を与える。私が育った環境では、私がいかに周りに溶け込めていなくて、私のブラックとしての特徴が美しくないことを常に刷り込んでくるものだった。今でも、私が美しくて、「女性的」であっていいということを完全に信じ切れていないのが事実。鏡と向き合ったときに自分にどのような言葉をかけるか強く意識しないといけない。

自分の黒人性についてたくさん学ばないといけないこと、また、忘れないといけないことがある。教え込まれてきたアンチ・ブラック性的な考え方から一歩引かないといけない。一個助けになっているのは他のブラックやブラジアンの人がソーシャルメディアで活躍しているところが見えていること。表象されていることってすごく大事。

Y: 美の基準とカラリズム(肌の色の濃さを理由として起きる差別)ってどういう関連性があると思う?

L: 私はミックス。一番暗い肌を持っているわけではないというのはわかっているし、それに伴う特権を持っていることもわかっている。

日本では、白以外の色はどれもネガティブな見方をされると思う。それと、西洋に比べて、日本の美の基準ってそんなに変化していないと思う。日焼けした肌色が社会の美の基準に逆らうように流行ったことはあったけど、しっかりと残ったわけではない。ガングロ、ね!女性は白く、弱く、女っぽくいなきゃいけないっていう考えに対抗するために生まれた流行らしいね。白いことが理想であるという考えがいかに根深く、堅く存在しているかがわかる。

アメリカではその幅ってもっと広いのね。私の肌色はどうやら西洋的な黒さの美的基準に当てはまるみたい。よく「ハニー」とか「ブロンズ」とか「チョコレートブラウン」とか言われる。

よくわからないんだよね。自分の中で美とは何か定義しないといけない。日本では美しくないといわれる。アメリカでは褒められはしても、白いことに比べたら物足りない。いずれにせよ、黒人性に対する疎外だよね。

ある人は黒人の見た目を楽しみつつも、実際には黒人を、黒人の歴史を、文化を尊重していない。

「ラップが好き。あなたの文化を尊重する。黒人をリスペクトするからブレイズにしている」って言う人がいる。それに対して私は「この髪型の裏にある歴史って知ってる?」と言う。黒人はシャワーを浴びることを許されなかったから髪を編まないといけなかった。アメリカで奴隷化されていた黒人は、長い間シャワーを浴びなくても良い髪型を考えないといけなかった。捕らえられたときはその三つ編みで逃げ道を描いた。それに、アフリカでは髪は社会でのステータスを表すもので、一種の表現方法だった。ただ見た目が好きだから文化の一部をリスペクトするって、それだけじゃ足りないんだよね。

黒人じゃない人が髪をブレイズにしているのを見るとすごく不快。夜になればブレイズは解けるし、元の髪質に戻せる。

黒人じゃない人がそういうスタイルを選んだ時は、見た目のためにしかやっていない。

ネットで出回っていた動画があって。黒人の男性が警察に事情聴取されていて。その警官は、その人みたいな髪型の人はよくドラッグを持っている、って言っていて。もちろんドラッグとか、何も違法なものを持っていなかったんだけど。そういうネガティブなステレオタイプを何もしてないその男性に押し付けていて、自分の中で正当化しようとしてるのを見て、いかに私たちが人種差別との戦いに打ち勝つまでの道のりが長いかを目の当たりにした。人々にわからせるのは自分の仕事じゃないっていうのはわかっているけど、何度も何度も同じことが繰り返されているのを見ていて呆れるんだよね。

私がミックスであることについて、私は結構肌が明るいほうだと思われると思う。そのせいでよく「十分ブラックじゃない」って思われているように感じていて、それでもって私の経験が、ブラックの経験として認められていないように感じて。

カラリズムが存在することは認める。でも、だからと言って私のブラックとしての経験が無効化されるわけではない。それは誰も私から奪うことはできないし、できてはいけない。

Y: 自分について、人々に何か知ってほしいことはある?

L: 私は、私として自分の人種にとどまらないということ。私の民族性にとどまらないとうこと。私だってシャイなときはあるって知ってほしい。内向的な性格だと思うけど、音楽と食べ物が好き。ファッションが好きだし、化粧も好き。読書は大好き。パスタも大好き。

Y: 自分について、人々に捨ててほしい思い込みはある?

L: 黒人だからって怖い人じゃないし、うるさいひとじゃないこと。むしろその正反対だと思う。

Y: 日本に生きるブラック女性として、明確に伝えておきたいことはある?

L: 簡単じゃない。でも、誰にも劣っていないこと。私たちは美しいということ。

Y: 日本に生きるブラック女性であることについて喜びを表したいことってある?

L: どんなに昔は嫌だったにしても、ブラック女性として、目立てるところはあると思う。恵まれていることだよ。黒い髪、黒い見た目。たくさんのブラックが、ブラックの鼻を好かない。私はすごくきれいだと思う。ブラック女性に、鏡を見たときに自分の美しさが見えてほしい。

Y: 最後に、今日話したことについておすすめしたい文献や資料はある?

L: Stephen Murphy Shigematsuさんの“Muti-Ethnic Japan and the Mono-Ethnic Myth” (他民族的な日本と単民族の迷信)という論文がある。あとは、Japan for Black LivesやBlossom Projectなどのソーシャルメディアを通してよく情報を得る。

あとは、ボディーイメージやブラック性についてではないけど、「We Should All Be Feminists(みんなフェミニストであるべき)はすごくいい!内容も好きだけど、著者の名前が私のナイジェリアの名前と一緒なのよね、Ngozi(ンゴズィ)って!

1年後にリベラがこれらの質問を振り返ってくれました。このインタビューの後編(2022年)は、以下のリンクから読んでね!

リベラとインタビュー後編: 黒人であること、その交差性、そして私の自己成長

リベラとインタビュー後編: 黒人であること、その交差性、そして私の自己成長

B.G.U.というフェミニズムとクィアの道 

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